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二重のプレッシャー社会:『生活防衛』と『スキルアップ』の狭間で見失われるもの
2025年も、いよいよ晩秋。カレンダーが残り少なくなっていくのを感じながら、皆様はどのような日々をお過ごしでしょうか。
現代社会を生きる私たちは、常に様々な情報と選択の波にさらされています。特にここ数年、そしてこの2025年11月現在、私たちの意識を強く占めている二つの大きな潮流があるように感じられます。
一つは、日々の生活に直結する『生活防衛』という現実的な課題。 そしてもう一つは、未来のキャリアや社会の変化に対応するための『スキルアップ』という、ある種の焦燥感を伴う要求です。
これら二つは、一見すると別々の問題のようですが、実は私たちの「脳」という最も重要なリソースを、同時に、かつ相反する方向から激しく消費させているのではないか。本日は、この「二重のプレッシャー」がもたらす現代人の疲弊、特に「脳疲労」という観点から考察を深めてみたいと思います。
第1章:『生活防衛』という名の、静かなる認知タスク
まず、私たちが直面している『生活防衛』の現実についてです。
各種報道によれば、2025年9月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は、依然として前年同月比で2.9%の上昇を示すなど、物価の高止まりが続いています。特に日常の買い物に目を向ければ、米価を含む食料品の値上がりが家計を直撃しており、ある調査(2025年11月発表)では、生活者の84%以上が物価高騰を「強く実感している」と回答しています。
こうした状況下で、私たちは知らず知らずのうちに、かつてないほど「計算」と「比較検討」を強いられています。
これは単に「節約する」という漠然とした行動ではありません。 スーパーマーケットに行けば、どの商品が最もコストパフォーマンスに優れているかを見極め、ポイントの還元率を計算し、どの決済方法(キャッシュレス、クレジットカード、ポイントカードの組み合わせ)が最適かを瞬時に判断する。特売日を記憶し、在庫を管理し、無駄のない献立を考える。年末が近づけば、「ふるさと納税」の限度額と返礼品の選定に頭を悩ませます。
これら一つひとつは小さなタスクかもしれません。しかし、この「最適解を求め続ける」という行為は、脳、特に意思決定と計画を司る「前頭前野」に継続的な負荷をかけ続けます。
私たちの認知資源、すなわち「考える力」や「集中する力」は有限です。日々の生活防衛のためにこの貴重なリソースが常に消費され続ける状態は、自覚なきままに「脳疲労」を蓄積させる大きな要因となります。
朝起きた瞬間から「今日も無駄遣いできない」というプレッシャーが頭の片隅にある状態。それは、脳が真に休息し、クリアな状態でいられる時間を奪っているとも言えるでしょう。この「守り」の姿勢で脳が常に緊張状態にあることが、一つ目の大きな負荷となっています。
第2章:『スキルアップ』という名の、加速する焦燥感
一方で、社会は私たちに「未来への対応」という『攻め』の姿勢も同時に要求してきます。その象徴が、昨今、新聞やビジネスシーンで聞かない日はない「リスキリング(学び直し)」と「AIの活用」です。
特に生成AIの進化は凄まじく、数年前には専門家のものであった技術が、今やビジネスパーソンの標準スキルとなりつつあります。世界経済フォーラムのレポート(2025年版)では「5年後には現在のコアスキルの多くが陳腐化する可能性」が指摘されるなど、変化のスピードは私たちの想像をはるかに超えています。
政府もDX人材の育成を掲げ、「人材開発支援助成金」などを通じて企業のリスキリングを後押ししています。企業側も、AI活用を重視する(2025年の調査ではリスキリングで重視するスキルのトップ)など、トップダウンでのスキル習得が推進されています。
しかし、この「学び続けなければならない」という環境は、私たちに新たなプレッシャーを与えます。
「AIに仕事を奪われるのではないか」 「このままでは、時代の変化に取り残されてしまう」
こうした焦燥感(FOMO: Fear of Missing Out)に突き動かされるように、私たちは新しい情報をキャッチアップし、新しいツールを学び、自身の市場価値を維持・向上させることを求められます。
本来、知的好奇心を満たす「学び」は、ポジティブな活動のはずです。しかし、それが「恐怖」や「焦り」から駆動されるものに変わった瞬間、それは脳にとって大きなストレス源となります。
次から次へと現れる新しい情報、習得すべきスキル。それらを常に追いかけ続けることは、脳を「常時接続(オンライン)」の状態に置き、情報の過剰摂取(インフォメーション・オーバーロード)を引き起こします。これが、現代特有の「脳疲労」をさらに深刻化させる二つ目の要因です。
第3章:「守り」と「攻め」の同時進行が引き起こす、脳のオーバーヒート
問題の核心は、この『生活防衛(守り)』と『スキルアップ(攻め)』という、性質の異なる二つの要求が、同時に、かつ高いレベルで私たちに課せられている点にあります。
これは、脳の働きから見ても、極めて非効率的で高負荷な状態と言わざるを得ません。
『生活防衛』は、多くの場合、不安や欠乏感といった「ネガティブな感情」をトリガーにします。将来への不安から、現在のリソース(お金、時間)を守ろうとする。これは、脳の扁桃体などが活発に働き、リスク回避的な思考パターンに陥りやすい状態です。常にアラートが鳴り響いているような、緊張を伴う脳の使い方です。
『スキルアップ』は、本来、未来への希望や成長意欲といった「ポジティブな感情」をトリガーにします。新しい知識を得て、創造性を発揮し、自己実現を目指す。これは、前頭前野が中心となり、計画的かつ柔軟な思考を必要とする脳の使い方です。
「不安」をベースにした“守り”の思考と、「希望」をベースにした“攻め”の思考。 「現在」の損失を最小化しようとする働きと、「未来」の利益を最大化しようとする働き。
これらを同時に、同じ脳で行おうとすること自体が、深刻な「認知資源の衝突」を引き起こします。例えるなら、アクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるようなものです。
私たちの脳は、本来マルチタスクを苦手としています。一つのタスクから別のタスクへ切り替える(タスクスイッチング)だけでも、大きなコストがかかります。 それが、日々の家計の計算(守り)をしている最中に、ふと「AIの勉強もしなければ」と考え(攻め)、また現実の支払いに戻る(守り)…というように、人生レベルでのタスクスイッチングを日常的に繰り返しているのが、現代の私たちではないでしょうか。
この持続的な認知の衝突と過剰な切り替えこそが、脳のCPUをオーバーヒートさせ、深刻な「脳疲労」状態を招いているのではないか、と私は考えています。
第4章:『脳疲労』というシグナルを見逃さないために
では、この「脳疲労」が蓄積すると、具体的にどのような現象が起きるのでしょうか。
それは多くの場合、「気のせい」や「怠け」として見過ごされがちな、些細な不調として現れます。
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集中力の低下: 仕事のメールを読んでいても、内容が頭に入ってこない。リスキリングのために開いた学習動画を、最後まで見ることができない。
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判断力の鈍化: 『生活防衛』のために節約しようと思っていたのに、ストレスから衝動買いをしてしまう。何が最適解か考えること自体が億劫になり、判断を先送りする。
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感情の不安定化: 些細なことでイライラしたり、逆に何も感じなくなったりする(無気力)。
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記憶力の問題: やるべきことを忘れる、新しい情報が覚えられない。
これらはすべて、脳が「これ以上は限界だ」と発している重要なシグナルです。 特に危険なのは、この脳疲労の状態では、『生活防衛』も『スキルアップ』も、どちらもうまくいかなくなるという悪循環です。
脳が疲弊していると、合理的な判断ができず、かえって無駄な出費をしたり、非効率な節約術に振り回されたりします。 また、疲れた脳では、新しい知識やスキルは定着しません。学習効率が著しく低下し、「こんなに頑張っているのに身につかない」と、さらなる自己嫌悪と焦燥感を生むことになります。
私たちは、この「脳疲労」という根本的な問題に対処せず、表面的な「節約術」や「学習法」ばかりを追い求めてはいないでしょうか。
結論:最も守るべきリソースは「脳」である
2025年11月、私たちは物価高という差し迫った現実と、AIの進化という不可避な未来の、まさに狭間に立っています。これらの大きな社会変動を、一個人の力で止めることはできません。
しかし、その激動の中で、私たち自身の「脳」の状態をどう保つかは、私たち自身に委ねられています。
『生活防衛』も『スキルアップ』も、突き詰めれば「より良く生きる」ための手段であったはずです。その手段に振り回され、最も大切な資本である「脳の健康」を損なってしまっては、本末転倒です。
もし今、あなたが原因不明の疲れや、思考の停滞を感じているのであれば、それは「怠け」ではなく、「脳疲労」という現代特有の負荷によるものかもしれません。
まずは、ご自身の脳がどれほどプレッシャーにさらされているかを客観的に認識すること。そして、情報から意図的に距離を置き、脳を休ませる時間(デジタルデトックスや、何もしない時間)を意識的に確保すること。
この二重のプレッシャー社会において、自身の「脳疲労」を自覚し、それを適切にケアすることこそが、未来を乗り越えるための最も重要かつ根源的な「スキル」であり、最大の「生活防衛」なのかもしれません。

